灯影幻燈譚 東京恋物語編 澪と月影珈琲館

灯影幻燈譚 東京恋物語編 澪と月影珈琲館

last updateÚltima actualización : 2026-08-17
Por:  鈴木 厳流彩Actualizado ahora
Idioma: Japanese
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雨の夜、偶然《月影珈琲館》へ迷い込んだ悠は、店員の澪と出会う。離婚や、忘れられない家族への想いを打ち明ける中で、悠は彼女の優しさに少しずつ心をほどかれていく。やがて二人は互いの温もりに触れ、長く閉ざしていた悠の心には、久しぶりに誰かを信じてもいいと思える小さな変化が生まれる。 「……触れても、いいですか?」 もしかすると澪が差し出したその言葉は、雨の向こうからこの物語を覗いているあなたにも、そっと向けられているのかもしれない。

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Capítulo 1

零話 最後の熱

 押し殺した吐息が自分の唇からかすかに漏れるのを、彼は聞き逃さなかっただろうか?

 男の肩へ回した腕に自然と力が入り、重なった身体の熱が、澪の中に入ってきた暖かいものを、より強く意識させる。

 すぐ耳元の呼吸が、胸の近くで鳴る鼓動が、今夜だけはいつもと違っていた。

 触れられるたび、皮膚より先に奥が熱を帯び、沈んでいく。

「澪。」

 耳元で名前を呼ばれ、澪はゆっくりと目を開いた。

 男は彼女を見ていた。

 求めている熱だけではなく、少し心配そうな色を携えながら、頬にかかった黒髪を指で払う。

「無理、してないか?」

 澪は一瞬答えすら忘れたが、すぐに首を横に振った。

「……大丈夫ですよ。」

 微笑んだはずなのに、うまく笑えない。

 彼の手の温もりが、まだ頬に残っている。

 その熱のなかへと全てを預けるたび、形にならない淡いものが、澪の内側に静かに押し寄せてくる。

 分かる。

 言葉にせずとも伝わる想い。

 澪だからこそ理解できてしまう、その温もりの意味。

……とくん、とくん。

 澪の深いところ、その誰にも触れられない場所で、それが今また、温かく、優しく脈打った。

 こんな想いをしたのは、もういつぶりだろうか。

 夜の闇は深く、それでいて、何よりも愛おしかった。

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零話 最後の熱
 押し殺した吐息が自分の唇からかすかに漏れるのを、彼は聞き逃さなかっただろうか? 男の肩へ回した腕に自然と力が入り、重なった身体の熱が、澪の中に入ってきた暖かいものを、より強く意識させる。 すぐ耳元の呼吸が、胸の近くで鳴る鼓動が、今夜だけはいつもと違っていた。 触れられるたび、皮膚より先に奥が熱を帯び、沈んでいく。「澪。」 耳元で名前を呼ばれ、澪はゆっくりと目を開いた。 男は彼女を見ていた。 求めている熱だけではなく、少し心配そうな色を携えながら、頬にかかった黒髪を指で払う。「無理、してないか?」 澪は一瞬答えすら忘れたが、すぐに首を横に振った。「……大丈夫ですよ。」 微笑んだはずなのに、うまく笑えない。 彼の手の温もりが、まだ頬に残っている。 その熱のなかへと全てを預けるたび、形にならない淡いものが、澪の内側に静かに押し寄せてくる。 分かる。 言葉にせずとも伝わる想い。 澪だからこそ理解できてしまう、その温もりの意味。……とくん、とくん。 澪の深いところ、その誰にも触れられない場所で、それが今また、温かく、優しく脈打った。 こんな想いをしたのは、もういつぶりだろうか。 夜の闇は深く、それでいて、何よりも愛おしかった。
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一話一節 雨の向こうの灯り と 二節 月影珈琲館
一節 雨の向こうの灯り 東京の路地裏。 雨が降りしきる夜、古びた看板が、寂れた裏通りのどこかにひっそりと姿を見せることがあった。《月影珈琲館》 そこへ辿り着くのは、なぜかいつも、傘を差した男だった。 忘れられない面影を胸の奥へしまい込んだまま、雨の夜をさ迷い続ける男。 店は誰かを呼び止めることも、無理に扉を開かせることもしない。 ただ暖かな灯りをともして、雨の向こうで静かに待っている。 その日も、誰かの悲しみだけを集めてしまったような豪雨が東京の街を覆っていた。  雨に追われるように歩いてきた一人の男が、暖かな灯りの前で静かに足を止める。 それが、この夜の始まりだった。二節 月影珈琲館 ……チリン。 扉を押すと、小さなベルが鳴った。 それまで耳を満たしていた雨音が一枚の扉を隔てて遠ざかり、代わりに暖かな空気と、深く焙煎された珈琲の香りが静かに流れ込んでくる。 男は少しだけ立ち止まり、肩に残った雨粒を軽く払った。 店内は広くない。  それでも、橙色の灯りに照らされた重厚な木のカウンターを見た瞬間、不思議と肩の力が抜けた。 どこか古く懐かしいジャズが、雨音の代わりに店の中を満たしていた。「こういう店、まだ残ってるんだな。」 濡れたコートの裾を気にしながら見渡しても、店内に客はいない。  雨が強いからだろう。 そう思うことにした。 店の奥の方、古びてはいるが丁寧に手入れされた革張りのソファのひとつに腰かける。 店内には、客どころか店員の姿さえ見当たらない。 しかし、不思議と待たされている気はしなかった。 彼はゆっくりと息をつくと、そのままソファの背へと体を預けた。《月影珈琲館》。 テーブルの側に立て掛けられた札の一枚に書かれた店の名が目に止まる。 洒落た名前だなと思った。 だが同時に、ごく小さな違和感が胸をよぎる。こんなところに店があっただろうか。 でも、彼はそれ以上深く考えはしなかった。酒も入っているし、今は雨を凌げればいい。 今必要なのは、この唐突な豪雨をしのげる場所と酔いを覚ます暖かい何かだった。 テーブルの上に置かれた一冊のメニューへと視線を落とす。 と。「いらっしゃいませ。」 まるで鈴の音のような声に振り返る。 そこには、長い黒髪をゆるくまとめた女性が、黒い制服に白いエプロンを着けて立ってい
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一話三節 澪という名前
三節 澪という名前 澪は不思議な女性だった。そう、澪。 目の前に現れた彼女はタオルを手渡すと、彼が何かを言うより先に、水の入ったグラスをテーブルへ置いた。 酒臭いですね、とも言わない。 こんな雨の中を、どうして歩いていたのかとも聞かない。 「まず、こちらをどうぞ。」 必要なことだけをして、必要のないことは聞かなかった。 それが、彼には少し不思議だった。 「あの……悠です。」 なぜ名乗ったのか、自分でもよく分からない。 注文を取りに来たのなら、珈琲を頼めばいい。 それだけのはずなのに、目の前の彼女との間に流れる静かな空気を埋めたくなったのか、気付けば悠は、自らの名前を差し出していた。 彼女は驚くでも、笑うでもなかった。 「悠さん。」 一度、その名を確かめるようにしてから、柔らかく微笑む。 「いい名前ですね。わたしは、澪。」 そして彼女もまた、与えられた分だけ返すように、自分の名前を口にしていた。 「澪さん。」 「はい。」 それだけだった。 出会ったばかりの男と女が、互いの名前を知っただけ。 なのになぜか、悠はその名前をもう忘れることはないような気がした。 澪。 まるでこの雨の夜のために、あらかじめ用意されていたかのような名前だった。 澪が注文を受けると、ほどなくして、茶葉を蒸らす柔らかな香りが店の中へ広がり始めた。 珈琲とは違う、ほのかに甘い香り。 珈琲館へ入っておいて我ながらどうかとは思うが、悠は昔から、どうしても珈琲の苦みが好きになれなかった。 雨と酒の匂いがまだわずかに残る悠の鼻先をくすぐり、深く息を吸うたび、張り詰めていたものが少しずつ緩んでいく。 「お待たせしました。」 やがて澪が運んできたカップから、白い湯気が細く立ち昇った。 「ありがとうございます。」 両手で受け取ると、掌に心地よい熱が伝わってくる。 澪はそれ以上話しかけず、静かにカウンターの向こうへ戻った。 二人きりの店内。 窓を打つ雨と、古いジャズ。そして、ときおり聞こえる食器の小さな音だけが、妙に広く感じられる静寂を埋めている。 悠は紅茶へ口をつける前に、何となくカップの中を見つめた。 黙っていてもいいはずなのに、なぜか黙っていることの方が落ち着かな
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一話四節 触れてもいいですか?
四節 紅茶を飲み終えても、悠はすぐには席を立たなかった。 いつの間にかレコードは終わっていて、針が盤面を離れたあとの店内には、窓を叩く雨の音と、カウンターの向こうで澪が使い終えたカップを片付ける小さな音だけが残されている。 陶器が触れ合い、水が細く流れ、それさえ途切れると、《月影珈琲館》の夜は驚くほど静かだった。 悠は自分の手の甲を見つめていた。 仕事の話でも、酒の席で笑うためのくだらない話でもなく、三年前に終わった恋について、こんなにも長く誰かと話したのは久しぶりだった。 好きだったことを、好きだったままでいいと言われただけなのに、胸の奥に残り続けていた空白へ、ほんの少しだけ温度が戻ったような気がしている。 澪がカウンターから出てきたのは、しばらくしてからだった。 向かい側ではなく、悠から少し斜めの位置へ腰を下ろす。 近い。 それでも、踏み込まれたような息苦しさはなかった。 黒い制服の袖が橙色の灯りを淡く返し、まとめていた長い黒髪の一部が肩から静かに流れている。 その横顔には窓硝子を伝う雨の光が映り込み、すぐそばにいるのに、どこか遠い夜の景色を見ているようでもあった。 「……疲れていますね。」 澪の声は問いかけというより、そこにあるものをそっと確かめるような響きだった。悠は反射的に否定しかけたが、すぐにやめた。今夜だけは、わざわざ取り繕う必要がないように思えた。 「……そう見えます?」 苦笑する悠を見ても、澪は笑わなかった。ただ穏やかな目を向けたまま、小さく頷く。 「少し。」 それだけの返事なのに、妙に逃げ道がなかった。悠は視線を落とし、自分でも説明できない居心地の悪さをごまかすように指を組んだ。 「格好悪いですね。」 なぜそんな言葉が出たのか、自分でもよく分からない。それでも澪は急いで否定せず、少しだけ首を傾げた。 「どうしてですか?」 悠は答えに詰まった。疲れていることも、三年前の相手をまだ忘れられないことも、一人でいることに慣れたつもりで、結局は酒で夜を短くしていることも、誰かに知られるのは格好悪いのだと、ずっとそう思っていた。 「……なんとなくです。」 結局、それ以上の言葉は出てこなかった。それでも澪は追及しなかった。雨が降り続き、壁の時計だけが静かに秒を刻んでいる。そ
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一話五節 また、雨の夜に
五節 また、雨の夜に 長い夜が静けさを取り戻したあとも、悠はしばらくソファから動けずにいた。 何かを言った方がいい気がするのに、気の利いた言葉はひとつも浮かばない。先ほどまであれほど近くにいた澪を、今になってまともに見ることの方が照れくさかった。 「お水、どうぞ。少し落ち着くと思いますから。」 いつの間にかいつもの穏やかな顔へ戻っていた澪が、冷たい水の入ったグラスを差し出す。そのあまりにも自然な様子に、悠は少し拍子抜けしながら受け取った。 「……ありがとうございます。」 一口飲むと、熱の残っていた身体へ冷たさがゆっくり広がっていく。澪は何も尋ねず、悠が落ち着くまで近くで静かに待っていた。 やがて悠は服を整え、まだわずかに湿っているコートへ袖を通した。 帰らなければならない。 分かっているはずなのに、入ってきたときにはすぐそこにあった扉が、今は妙に遠く見えた。 外では、あれほど激しかった雨も細くなっている。 「あの……。」 扉へ手を掛ける直前、悠は振り返った。澪が静かにこちらを見ている。 「……また来てもいいですか?」 口にしてから、少しだけ恥ずかしくなった。 澪はすぐには答えなかった。 窓の外へ視線を向け、細く降り続く雨をしばらく眺めてから、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。 「ええ。また、雨の夜に。」 それが店員としての言葉なのか、それとも小さな約束なのか、悠には分からなかった。 けれど、その言葉だけは妙に嬉しかった。 「じゃあ……また。」 悠が扉を開けると、小さなベルが鳴り、冷たい東京の雨が再び頬へ触れた。 街の灯りも、濡れた道路も、夜の寒さも何ひとつ変わってはいない。 それでも悠は、来たときより少しだけ、軽い足取りで前に進み出した。 やがてその背中が雨の向こうへ消えると、澪は使われたグラスを洗い、ソファを整え、テーブルを元の位置へ戻していった。 悠のいた席も、ほどなく何事もなかったように元へ戻る。 窓の向こうでは、細い雨がまだ降り続いていた。 誰もいなくなった《月影珈琲館》には、ただその音だけが静かに残っていた。
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二話一節 もう一度、雨の夜に
一節 もう一度、雨の夜に その夜は、一ヶ月ぶりの豪雨だった。 仕事を終えた悠は駅へ向かう人の流れから少しずつ外れ、傘を打つ雨音を聞きながら、以前歩いたはずの裏通りへ足を向けていた。 今日は酒を飲んでいない。 あの夜から毎日きちんと、というほど立派な生活をしているわけでもなかったが、朝はなるべく何かを腹へ入れるようになった。食パン一枚の日もあれば、時間がなくてバナナだけの日もある。それでも、眠るためだけに酒を飲む夜は少し減っていた。 別に、誰かに褒めてもらうほどのことではない。 そう思いながらパンを齧る朝ほど、不思議と柔らかな声を思い出した。 澪。 夜を迎えるたび、名前だけでなく、その姿まで思い起こされるようになっていた。 「……この辺だったよな。」 誰に言うでもなく呟いてから、悠は路地をひとつ曲がる。 しかし探していたものはない。 もうひとつ曲がっても、濡れた壁と閉じたシャッターが並んでいるだけだった。 この数日、もう何度、同じことを繰り返してきただろう。 そのたびに、雨ひとつない真夏の夜の下、悠は独り、何もない東京の街をさ迷い歩いてきた。 やっぱり、あれは酔って見た夢だったのだろうか。 そんな馬鹿なことを考えながら、諦めかけたそのときだった。 雨の向こうに、橙色の灯りが滲んだ。 《月影珈琲館》 古びた看板を見つけた瞬間、悠は知らず微笑んでいた。 ……チリン。 懐かしい鈴の音。 扉を開けば、珈琲の香りと古いレコードの音が、雨に冷えた身体を迎え入れる。 「いらっしゃいま……。」 カウンターの向こうにいた澪の声が、途中で止まった。 彼女はほんの少し目を見開き、悠の顔を確かめるように見つめてから、いつもより少し遅れて微笑んだ。 「……悠さん。」 名前を覚えていてくれた。 ただそれだけのことが、この夜の悠には、この一ヶ月のなかであった何事よりも嬉しかった。
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二話二節 覚えていた事
二節 覚えていたこと 悠は濡れた傘を入口の傘立てへ入れると、一ヶ月前のように店の奥へ向かうことはせず、そのままカウンターの前まで歩いていった。 澪。 一ヶ月ぶりに目にした彼女は、記憶の中に残っていたよりも懐かしく、それ以上に、綺麗だった。 「何か飲まれますか?」 カウンターの向こうへ戻った澪がそう尋ねるまで、悠はメニューへ視線を向けることさえ忘れていた。 もしかしたら、見つめていたことに気づかれてしまったのかと思うと急に気恥ずかしくなり、誤魔化すように手元へ目を落とす。 「……紅茶をお願いします。」 その返事を聞いた澪は柔らかく頷き、棚からティーポットを取り出して茶葉を用意し始めた。 茶葉を量り、湯を注ぐという何気ない仕草。 一ヶ月前には見られる事のなかったそれらを、悠はまるでおもちゃを見つめる猫かのように、ひとつひとつ丁寧に視線でなぞってしまう。 「……今日は、お酒を飲んでいないんですね。」 不意にそう言われ、悠は我に返った。 自分の服に匂いでも残っているのかと襟元を確かめようとしてから、少し可笑しそうに澪を見る。 「分かるんですか?」 澪は湯の中でゆっくり開いていく茶葉を眺めながら、一ヶ月前の悠を思い出したのか、小さく目元を緩めた。 「前は、入ってきたときから少しお酒の匂いがしていましたから。今日は、それがしません。」 名前だけではなく、そんなところまで覚えてくれていたのか。 彼の口元からは隠しきれない笑みが零れていた。 「最近、酒を少し減らしたんです。」 その言葉に、紅茶を蒸らしていた澪が顔を上げる。悠は少し照れくさくなりながらも、この一ヶ月で変わったことをそのまま続けた。 「朝も、なるべく何か食べるようにしてます。パン一枚とか、時間がない日はバナナだけですけど。」 三十二歳にもなって朝食を食べた報告をするのは妙な気もしたが、澪は笑わず、むしろ少し驚いたように悠を見ていた。 「どうして急に?」 温めておいたカップを悠の前へ置く澪を見ながら、彼は特別な理由でもないように答える。 「澪さんに言われたので。」 その瞬間、カップから離れかけていた澪の指が、ほんのわずかに止まった。 いつもなら自然に続くはずの言葉も、今だけはすぐに出てこない。 「それは……よかったです。」
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二話三節 今度は、澪の話
三節 今度は、澪の話 紅茶を半分ほど飲んだところで、悠はカップを置き、カウンターの向こうにいる澪へ視線を向けた。 前の夜は、自分のことばかり話していた。 離婚したこと。妻のこと。あの子のこと。眠るために酒を飲んでいたことまで、今になって思い返せば、初めて会った相手によくあれほど話したものだと思う。 それなのに、自分は澪のことをほとんど何も知らない。「澪さんのことも、聞いていいですか?」 突然そう言われた澪は、手にしていた布巾を止め、まるで自分が質問されるとは考えてもいなかったように目を瞬かせた。「……わたし、ですか?」 その反応が少し意外で、悠は思わず笑ってしまう。「そんなに変なこと聞きました?」 澪は慌てたように首を横へ振ったあと、少し困ったように笑い、布巾をカウンターの端へ置いた。「いえ。ただ、あまり聞かれることがないので。」 考えてみれば、この店では澪が話を聞く側なのだろう。そう思った悠は、重たい過去を聞き出すつもりなどないことを伝えるように、なるべく軽い調子で身を乗り出した。「じゃあ、好きな食べ物とか。」 予想していたよりずっと普通の質問だったらしく、澪は一度目を丸くしてから、少しだけ考えるように視線を上へ向けた。「甘いものは好きですよ。特に、焼き菓子とか。」 悠は思わず笑った。「なんか、ちょっと意外です。」 その言葉に、澪はわずかに眉を寄せる。「どういう意味ですか?」 怒っているわけではない。それでも少しだけ拗ねたように見える表情が可笑しくて、悠は慌てて両手を軽く上げた。「いや、もっと大人っぽいものが好きなのかなって。お酒とか、苦い珈琲とか。」 澪はしばらく悠を見ていたが、やがて小さく息を漏らし、諦めたように笑った。「珈琲館で働いていますけど、甘いものくらい食べますよ。」 そう言われてみれば当たり前だった。 けれど、その当たり前を一つ知れたことが、悠には妙に嬉しかった。「飲み物は?」 質問を重ねると、澪も少しずつ慣れてきたらしく、今度はそれほど迷わず答える。「紅茶も好きです。あとは、寝る前なら温かいミルクとか。」 その答えを聞いて、悠の中に、仕事を終えた澪が湯気の立つカップを両手で持っている姿が浮かんだ。 まだ見たこともない光景なのに、不思議とよく似合う気がした。「店を閉めたあとは、何してるん
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二話四節 言葉の向こう側
四節  言葉の向こう側 それからしばらく、二人とも何も言えなかった。 先ほど澪が口にした「嫌じゃないんです」という言葉が、まだそのまま二人の間に残っているようだった。 悠は何か話した方がいいのだろうかと思ったが、適当な話題を探してしまえば、せっかく澪が見せてくれたものから逃げるような気がしてやめた。 澪もまた、いつものように自然な笑顔へ戻ろうとはしなかった。 少し俯いたまま、自分の指先を見つめている。 そんな彼女を眺めているうちに、悠は一ヶ月前とは違う感覚を覚えていた。 あの夜は、自分がどう思われているのかも、澪がどんな人なのかも考える余裕などなかった。 ただ差し出された優しさへと縋るように、その温もりを受け入れただけ。 けれど今は、目の前にいる澪が何を思っているのか、自分と一緒にいることを彼女自身はどう感じているのか、それを知りたいと思っていた。 やがて澪が顔を上げる。 交わった視線には、鮮やかな熱が滲んでいた。 ほんの少し前までなら、それだけで済んでいた。 しかし今はもう、互いの目を見ているだけで妙に落ち着かず、どちらも先に視線を外すのは惜しいような気がした。 やがて澪の手がゆっくりと動き、悠の手へ向かって伸びてくる。けれど、触れるほんの少し手前で、その指先は止まった。 「……触れても、いいですか?」 一ヶ月前にも聞いた言葉だった。 あの夜の悠なら、すぐに頷いていたと思う。 けれど今夜は、その伸ばされた手を見つめているうちに、別のことが気になった。 「澪さんは?」 問い返されるとは思っていなかったらしく、澪は目を瞬かせた。 「……わたし、ですか?」 その反応を見て、悠は少しだけ迷ったものの、それでも聞かずにはいられなかった。 「澪さんは……俺に触れてほしいんですか?」 澪の表情が止まった。 嫌そうな顔ではなかった。 ただ、自分でも考えたことのない問いを突然渡されたように、困った顔で悠を見つめていた。 「意味は分かっています。」 そう言ってからも、澪はすぐには続けられなかった。 悠へ伸ばしかけた手を引くこともせず、そのまま指先だけを止めている。 「分かっていますけど……ちょっと待ってください。」 悠は何も言わずに頷いた。 一ヶ月前、
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二話五節 零距離
二話五節 零距離 握りあった手は、離されなかった。 悠の指が澪の手を握り返すと、彼女はわずかに息を詰めた。 いつものように柔らかく微笑もうとした気配はあったものの、その笑みは途中で止まり、代わりに少しだけ熱を帯びた視線が、近い距離から悠の目を捉えている。 先ほどまでなら、何か言葉を探していたかもしれない。 けれど、今はもう必要なかった。 悠が少しだけ身体を寄せると、澪も逃げることなく、その距離を受け入れた。 唇が触れるまでの数秒が、妙に長く感じられる。 最初の口づけは、一ヶ月前の夜と同じように短かった。 触れて、離れる。 けれど離れたあとも、澪は目を閉じたままだった。 悠がその表情を見つめていると、やがて澪はゆっくりと瞼を上げる。そこにはいつもの余裕の代わりに、ほんの少しだけ戸惑ったような色が残っていた。 悠はもう一度、顔を寄せた。 二度目の口づけは、先ほどより長かった。 澪の指が悠の手から離れ、そのまま彼の腕へ触れる。悠もまた、ためらいながら澪の頬へ手を伸ばすと、長い黒髪が指の間をするりと抜けていった。 一ヶ月前には、自分からこんなふうに触れる余裕などなかった。 あの夜はただ、澪が差し出してくれた優しさに縋り、それを受け入れるだけで精一杯だった。 けれど今夜は違う。 澪が自分を見ている。 触れれば、触れ返してくれる。 自分がほんの少し距離を詰めれば、そのぶんだけ彼女も近くなる。 そんな一つ一つが、悠の胸の奥に静かな熱を灯していった。 「……悠さん。」 唇が離れたあとで名前を呼ばれ、悠は思わず澪の顔を見た。 いつもの落ち着いた声ではなかった。 ほんの少し息が混ざっている。 それだけの違いなのに、ひどく近く感じられた。 悠はその頬を撫で、そのまま指先を髪へ滑らせる。 澪は目を細め、しばらくされるがままになっていたが、やがて自分から悠の胸元へ手を伸ばした。 触れ合う場所が増えていく。 そのたびに、先ほどまで二人のあいだに残っていた遠慮が、少しずつ形を失っていった。
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